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ありぎりすな生き方・・・!?

 

定本 北の国から

定本 北の国から

 

 

これはすべて個人の感想で、エビデンスが担保されているものでもありません。

また、万一、私の表現であなた様に、混乱、不安、不快感を抱かせてしまったのであれば、それはまったくの本意ではないことをご理解して頂けましたら誠に幸いに思います。

 

1、ありぎりす

さて、選択なき人生はありません。

即ち、それが、重要な選択だと認知させるほど、ハムレットのように「To be or not to be・・・」という2択に苦悩しちゃう傾向にあります。

であるならば、2択という選択肢を選択しないで、

例えば、「やきそば」も食べたいし「ぱん」も食べたい、
「いちご」も食べたいし「大福」も食べたい、

即ち、「やきそばぱん」「いちご大福」の如く、

重ね合わせの「ハイブリッド」(アウフヘーベンされたジンテーゼ)という選択も、それは、それで、いとをかしなのではないでしょうか・・・!?

そこで、私なりに、おすすめするロハスな生き方が、「ありぎりすらいふ」であり、

つまり、「あり」のように努力・労働し、「きりぎりす」のように刹那に楽しむ・遊ぶ。

多分、そんな生き方が、「貨幣経済」「ロハス」という観点において、また、「侘び寂び」の観点において、

はたまた、「愛と平和」の観点においても、

現在のところ、もっとも、「最適な道」なのかも知れないという感じです。

そんな感じで、「ありぎりす」について、2以降記すとします。

2、各モードにおけるサンク・コスト回収方式

さて、万物には、「万物流転」「諸行無常」の如く新陳代謝があるように、形あるものには全て終わりがあり、

つまり、何かが終わるときは、何かが始まるときで、何かが始まるときは、何かが終わるときであり、

そして、全ての行動には、時間や貨幣などの「埋没費用(サンク・コスト)」が派生すること必然であると言い得ます。

例えば、恋や愛(異性への情愛だけではなく、人間として、また、何らかの物事に対してなど、即ち、包括的なものとしての)などのエピローグ(終章)行動において、

俺・私の失ったところの時間や貨幣、思いなどを返してという感じで、

決して回収し得ないところの不毛の回収行動に、人は、自己欺瞞にして感情的になるであろうと言い得ます。

換言すれば、「人の一生というのは「サンク・コスト」の回収行動である」とも言えるのかも知れません。

そして、それは、「ありもーど」>「きりぎりすもーど」であるほど、回収行動を強化させる傾向にあると言えます。

即ち、「ありもーど」であるほど、「サンク・コスト」を逓増させることで、「継続力」「無難力」を作る傾向にあると言い得ます。

しかしながら、それは、同じ立ち位置に留まることで、保守的な行動を作ることでもあると言い得て、新しい思考・思想は受容し難いのかも知れません。

そして、度が過ぎると、行動に未練さを作り、儚い人生において、過去の呪縛に嵌るものを作ろうとする(=認知的不協和行動)のかも知れません。

反対に、「ありもーど」<「きりぎりすもーど」であるほど、回収行動を弱化させる傾向にあるとも言えます。

即ち、「きりぎりすもーど」であるほど、「サンク・コスト」を逓減させることで、「諦め力」「山師力」を作る傾向にあると言い得ます。

しかしながら、それは、立ち位置を変えることで、進歩・革新な行動を作ることでもあると言い得て、保守的な思考・思想は受容し難いのかも知れません。

そして、度が過ぎると、行動に日和見を作り、儚い人生において、未来の呪縛に嵌るものを作ろうとする(=認知的不協和行動)のかも知れません。

3、「同属(近親)嫌悪」と「確証バイアス」

人が寛容さを失うときは、憎悪、不満、嫉妬、欲望、つまり、煩悩を感じるときでもあると言い得ます。

換言すれば、寛容になるほど、煩悩を失うことが出来るとも言い得ます。

そして、人が煩悩を強く感じるとき、それは、自我心理学がいう、「同属(近親)嫌悪」が作るところの「投影性同一視」によるものなのかも知れません。

つまり、自己は自己、他者は他者、即ち、他者≠自己にも関わらず、社会心理学がいうところの「確証バイアス」付で他者を自己の鏡とし、

その鏡に投影された像に対し、嫌悪・憎悪するという感じで、

即ち、私というアイデンティティが希薄であり、かつ、自虐にして自罰的な人であるほど、「他者嫌悪・憎悪」≒「自己嫌悪・憎悪」の罠に嵌る傾向にあるという感じです。

そして、それが集団内で同調現象を作り、その、もっともたる終末が、戦争だといえるのかも知れません・・・。

4、認知的不協和行動の罠

「ありもーど」>「きりぎりすもーど」、或いは、「ありもーど」<「きりぎりすもーど」のまま固定していると、

「万物流転」、「諸行無常」故、そのときが来たら、「モード転換」の圧力が掛かると言い得ます。

そのとき、人は、認知的不協和行動で、「モード転換」に抵抗しようとするほど、

抵抗エネルギーの反動エネルギーが、自己内に苛立ちを作り、結果的に、寛容さを失わせるのかも知れません。

つまり、「他者嫌悪・憎悪」≒「自己嫌悪・憎悪」の罠に嵌るのかも知れません。

或いは、抵抗し続ける(=反動エネルギーを浴びる)ほど、心身を蝕ませ、何らかの病気になることで、強制的に、モードを転換させるのかも知れません。

従って、情報過得して視野を狭窄させ、あら捜しばかりするときは、それは、「モード転換」の合図でもあると言い得て、

煩悩や病気が深くなる前に、「ありもーど」>「きりぎりすもーど」⇔「ありもーど」<「きりぎりすもーど」という感じで、早めの「モード転換」がよいという感じです。

5、「ありぎりすいずむ」で最適化行動

いずれにせよ、上記に記した通り、人は、受動的に「モード転換」していると言い得ます。

故に、どうせ、転換するなら、それを、能動的にしちゃおうというのが、私なりにイノベイトするところの「ありぎりすいずむ」であり、

何らかの現象に遭遇したとき、並列思考で、「ありもーど」としての意見、「きりぎりすもーど」としての意見を、

自己内で、対立にして融合、つまり、相補の関係にすれば、必然的に、それは、キュビズムな総意となり、

つまり、必然的に、多角度で見た「モード転換」なので、それは、時間軸Tnにおける、自己が行えるところの最適な行動となるであろうと言い得て、

結果的に、それが、寛容さを作るとも言い得ます。

そして、それは、「ニヒリズム虚無主義)」の罠を回避、つまり、かの、ニーチエがいう、「力への意志→最適化行動」を作るであろうとも言い得ます

6、「やるなら今しかねぇ」・・・

さて、長々と記してきましたが、

より、端的に言えば、「やるなら今しかねぇ~♪ by 五郎 from 「北の国から」という感じです。

そして、それが、人のQOLに多いに貢献し、、「寛容さ」を作り、「愛と平和」を作り、

死ぬるまで生きることで、その人なりに相応しいところの「長寿と繁栄」をもたらすことが期待出来るであろうという感じです。

 

※おまけ

 

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

 

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