体のこり、歪み、痛みの要因~その9~
まんがと図解でわかるニーチェ (別冊宝島) (別冊宝島 1729 スタディー)
- 作者: 白取春彦
- 出版社/メーカー: 宝島社
- 発売日: 2011/02/15
- メディア: 大型本
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これはすべて個人の感想で、エビデンスが担保されているものでもありません。
また、万一、私の表現であなた様に、混乱、不安、不快感を抱かせてしまったのであれば、それはまったくの本意ではないことをご理解して頂けましたら誠に幸いに思います。
7、「クオリア問題」と「遠近法思考」
①私的クオリア問題
私的に、「クオリア問題」なるものを哲学的(形而上にして形而下の領域という意味での)に喩えていうなら、
ホログラム(CD、DVD、BLU-RAYなどの光ディスク裏面や高額紙幣に導入されている)の観測に相似していると言えるのかも知れません。
つまり、物事というのは、見る角度により、無限通りといい得る視点とその解釈が存在していると言えて、故に、少数の視点であるほど、
視野狭窄を根底においた先入観や固定観念などの罠に陥り、苦悩やジレンマ(葛藤)などの呪縛に嵌る傾向にあり、
かといって、視野広漠過ぎると、それは、それで、際限がないからこそ故の、苦悩やジレンマなどの呪縛に嵌る傾向にあるとも言い得ます。
つまり、同一の現象を観測し何らかの「感覚質」を得たとしても、人それぞれ感じ方が違い、また、同一の人であっても、その状況により、感じ方が変化してしまう。
即ち、認知バイアス(偏り)に陥るほど、自己と他者という人間関係と、自己そのもの間で、もつれ相関し合いながら、苦悩やジレンマなどの呪縛に嵌る傾向にあるとも言えます。
即ち、「ロダン」の「考える人」状態だと言えます。
②物事の捉え方
例えば、絶対値において1080円は、それ以上でもないし、それ以下でもないのですが、
その人によって、また、同じ人であっても、置かれた状況により、相対価値、つまり、価値観と意味合いが違って来ると言えます。
100均好きなある人は、1080÷108=10個と解釈するかも知れないし、
ビール好きな人は、1080÷215(350缶ビール近所のあるコンビニにおける小売価格)=5.02本
吝嗇(りんしょく)過ぎる人は、3~10倍くらいの感覚で以って、100均を324円~1080円くらいの価値観で利用したりするのかも知れません。
そして、さほど辛くないときは、カイロや整体は、1080÷5000(当店のカイロ50分コースの料金)=0.21回分と解釈するかも知れませんが、
ひどく辛いときに施術を受け、施術後、その辛さが、すっきり・らくらく(当店のキャッチ・コピーでもある)になったら、
それは、それで、5000円が何倍もの価値に感じられるかも知れません。
③遠近法思考
さて、人というのは、予想や現実たるその現象や出来事が、自己にとり、関連度が高いと感じられるほど、それに比例して、重要に重く感じられ、
関連度が低いと感じられるほど、それに比例して、些細に軽く感じられる傾向にあると言えます。
要するに、その現象や出来事が、人により、また、同じ人であっても、置かれた状況により景色が違って見えると言えます。
つまり、人は、その現象や出来事が自己にとり重要であるほど大きく感じられるように出来ているので、
結果的に、人は、程度の差はあれども、誰しもが、自己中心的な生き物になるように出来ているとも言えます。
つまり、人は、物事を判断するとき、自分の視点から出発しており、その人の年齢や立場、性別、文化的背景などから見えるもの、見えないものがあり、
その人にとって、重要なこと、些細なことも、その人の視点によって、決まってくる。
かの、哲学者ニーチエは、それを、「遠近法思考」といったのですが、
その「遠近法思考」は、自覚しておらず、意識していない部分でも、人の「認知行動」に常に作用し影響を与えている。
つまり、その人固有の「遠近法思考」という枠の中で感じ、考えていることになる。
※参照文献
白取春彦監修、まんがと図解でわかる「ニーチェ」、「別冊宝島」、2013年、P30~32より
④他者というものは、自己の主観を通したところの他者に過ぎない・・・
さて、③で記したとおり、人は、その人固有の「遠近法思考」という枠の中で、物事を感じているということを、
共有するほど、自己像は見失いにくく、かつ、人間関係も、また、円滑に進むであろうとと言えます。
言い換えれば、そのことを忘れると、
「僕は、私は、こんなに頑張っているのに、こんなに思っているのに、相手はわかってくれない、気づいてくれない、リアクションが感じられない」と、
しまいは、「けなげな悲劇の主人公」となるやも知れません。
まあ、これは、これで、ひとつの生き方でもあるし、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の領域において、けなげな悲劇の主人公は、それは、それで、いいのかも知れませんが・・・。
いずれにせよ、他者というものは、自己の主観を通したところの他者に過ぎないと言えます。
つまり、自己そのものと(=A)、自己の主観を通したところの他者像は(=AB)は、イコールにはなり難く、
同様にして、他者そのものと(=B)、他者の主観を通したところの自己像は(=BA)、はイコールにはなり難いと言えます。
従って、他者に対して自己の尊重を期するなら、自己においてもその他者というものを尊重しない限り、一方的な要求となるやも知れず、
しまいは、自己を見失い、かつ、人間関係はぎすぎすしたものになるのかも知れません。
つまり、4、「ニュートンのゆりかご」の如く、「自己尊重要求=他者尊重受容」であると言えます。
④万物、万人に感謝すべく運命を愛あらん・・・
さて、「陰陽論」の如く、「矛と盾」、2で記したところの「アゴニスト」と「アンタゴニスト」の関係には、相補性があると言い得ます。
つまり、陰は陽によって、陽は陰によって、「相互補い合い」の振舞いをしているので、片方が傷つくと、結果的(時間軸の延長線上)に、両者とも傷つくことになると言えます。
逆に、片方が癒されると、結果的(時間軸の延長線上)に、両者とも癒されることになるとも言い得ます。
自己内の矛盾、男女関係、親子関係、友人関係、仕事関係などの人間関係も同様であると言えます。
さて、陰は陽を失うと存在出来得ず、その逆も、また、然りです。
つまり、欠点は利点によって支えられ、利点は欠点によって支えられていると言えて、かつ、時間軸Tにおいて、それらは、流転していくであろうとも言い得ます(=万物流転)。
例えば、自己や気になる人の欠点やあらを感じたり・見えたことで、ネガティブな反応で自己の劣等感を感じたり、その人を嫌いになったりすることがあるかも知れません。
しかしながら、上記に記したように、利点と欠点は表裏一体なので、結局は、本質を見失っているところの、ドクサ(虚知)な振舞いであるといい得るのかも知れません。
そんなときこそ、「二律背反(アンチノミー)」ちっくに、そのあらや欠点を愛そうとすればいい。
しかしながら、自他共に調子に乗り過ぎてしまう(=おだつ)と、それは、それで、いけないので、
「柔らかいふとん」のようではなく、「固いところのせんべいぶとん」のように、そのあらや欠点を愛することこそが、エピステーメー(真知)となり得るのかも知れません。
つまり、自己が自己を尊重出来ない、期待出来ない、愛せない人であるほど、他者を自己の鏡の如く投射させ、そこにある欠点やあらを探そうとし、
詭弁、拡大解釈、論点のすり替え・こじつけ・押し付け、権威への訴えなどを駆使して、しまいは、個人攻撃、誹謗中傷ごととなるのかも知れません。
即ち、他者の欠点・あら=自己の欠点・あらであるともいい得ます。
言い換えるなら、他者がいないと、自己の欠点・あらは見出し得ない・・・。
つまり、その欠点・あら解消動機が、自己を大いに進歩・成長させるといい得るので、
従って、自己が自己を尊重出来ない、期待出来ない、愛せない人であるほど、精神の進歩・成長の速度が遅く、
かつ、他者を尊重出来ない、期待出来ない、愛せないであろうといい得ます。
つまり、
「愛される=愛する」→「愛される-愛する=0(無)」、
「my love=your love」→「my love-your love=0(無)」、
「自己愛=他者愛→自己愛-他者愛=0(無)」
という等価式が成立するといい得ます。
即ち、絶対値或いは相対値の領域においても、「これはこうでなければならない」「これはこうあるべきだ」と言う感じで、
「愛される」「my love」「自己愛」<「愛する」「your love」「他者愛」、或いは、「愛される」「my love」「自己愛」>「愛する」「your love」「他者愛」と認知するほど、
相互リンクにして相補性たる心身と人間関係の相関において、それらは必要以上の苦悩やジレンマの罠に陥り、しまいは、「ロダン」の「考える人」状態になるやも知れません・・・。
まあ、それは、それで、誰もが通る道だとも言えるし、だからこそ、精神が高みになるべく成長・進歩するであろうとも言えるのですが、
いずれにせよ、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「礼も過ぎれば無礼になる」「薬も過ぎれば毒となる」という感じです。
拠って、「万物、万人に感謝すべく運命を愛あらん・・・」と論駁すること相成ります・・・。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
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