らくだカイロのブログ

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体のこり、歪み、痛みの要因~その15~

自信と劣等感の心理学 ~何があなたの中の自信を引き出すのか~ (だいわ文庫)

自信と劣等感の心理学 ~何があなたの中の自信を引き出すのか~ (だいわ文庫)

 

 

これはすべて個人の感想で、エビデンスが担保されているものでもありません。

また、万一、私の表現であなた様に、混乱、不安、不快感を抱かせてしまったのであれば、それはまったくの本意ではないことをご理解して頂けましたら誠に幸いに思います。

 

13、劣等感

 

人は、何かしらの劣等感(コンプックス)を抱いていて、その劣等感克服動機が、防衛(適応)機制として働き、

 

人に緊張や不安を感じさせ、努力や成長、自棄や嫉妬などといった行動動機を刺激すると言えます。

 

そして、劣等感と自尊心は強い相関関係にあると言えます。

 

ある意味、文化・芸術・科学というのは、クリエイターやイノベイターが所持するところの劣等感を感性により置換・昇華させたものであるとも言えます。

 

つまり、劣等感と自尊心は、「陰陽論」の如く、「矛と盾」、「表と裏」、「アゴニスト」と「アンタゴニスト」の如き、相補性の関係にあると言い得ます。

 

即ち、劣等感はgut(グート=善)にしてböse(ベーゼ=悪)でもあるので、ある意味、「諸刃の剣」であるとも言えます。

 

さて、かつて、かの、財津和夫は、「愛を知ったために涙が運ばれて・・・」と唄いましたが、

 

そんな感じで、何かを知るほど、それに相関され、何かが刺激され、結果的に、何かが起きるといい得ます。

 

言い換えれば、その何かを知らなかったら、それに相関された何かも起きることはないのかも知れませんが、愛を知ることも、また、ないのかも知れません。

 

即ち、知ることも、gut(グート=善)にしてböse(ベーゼ=悪)であり、ある意味、やはり、「諸刃の剣」であるともいい得ます。

 

つまり、(他者に煽られたりして)何かを知ると劣等感が刺激され、副次反応で不安・緊張を感じて、それらを何とか克服・解消しようとするのかも知れません。

 

その自力克服が困難だと認識した場合、コンプレックス産業を利用したり、家庭、学校、職場においてパートナーを見つけ、

 

何らかの方法で劣等感の克服を要求したりするのかも知れません。

 

煩悩的情動が強い場合の反応としては、

 

(1)他虐傾向が強い場合→

 

劣位性を持つ人を見て自己を慰める、優位性を持つ人を貶める、より、強度な反応としては、劣位性を持つように他者を陥れるなどで自己・他者価値下げ

 

(2)自虐傾向が強い場合→

 

自罰・自傷行為、依存症、妄想的白日夢などで自己・他者理想化

 

(3)両型を混在させる

 

などが考えられるといい得ます。

 

そのとき、相互リンクにして相補性たる心身と人間関係を相関させながら、

 

心身では報酬系を関与させつつ、様々な神経伝達物質や脳内麻薬様物質が放出され、自律神経もうごめき、(平滑筋、横紋筋含む)筋も相関反応をして、

 

それらがパラメーターとなり何らかの「クオリア(感覚質)」を作るといい得ます。

 

結果、6に記した通り、ある人は、それを「痛い」、ある人は「だるい」、ある人は「こる」、ある人は「重痛い」、ある人は「ずきずき痛い」、

 

また、ある人は「あまり感じない」、また、ある人は「心地よい」、

 

また、ある人は、「悔しい」「憎い」、或いは「恋しい」、「愛しい」などと感じて訴えるかも知れません。

 

つまり、知ることは、gut(グート=善)にしてböse(ベーゼ=悪)でもあるので、

 

それを踏まえた上で、知ろうとすることはエピステーメー(真知)であるが、一方的にグートやベーゼのみを求めるなら、

 

それは、ドクサ(虚知)となり、新たなる苦悩が無限に創造されると言えるのかも知れません・・・。

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

 

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体のこり、歪み、痛みの要因~その14~

それからのハイジ

それからのハイジ

 
『アルプスの少女ハイジ』に学べ!   元気を取り戻す11の方法とは?
 

 

これはすべて個人の感想で、エビデンスが担保されているものでもありません。

また、万一、私の表現であなた様に、混乱、不安、不快感を抱かせてしまったのであれば、それはまったくの本意ではないことをご理解して頂けましたら誠に幸いに思います。

 

12、「自由とは孤独なり、孤独とは自由なり」

 

さて、10で記したように、相対的自己評価に誤りが少ない人(=己を知る人)であるほど、恐怖と孤独に耐性があるとも言えますが、

 

しかしながら、孤独と恐怖に克つ過程において、必然的に、偏屈性を獲得する傾向にあるとも言えるので、

 

アルプスの少女・ハイジ」でいう「アルムおんじ」の如く、「変わり者」というスティグマ(刻印)を貼られること自明でもあります。

 

代わりに、様々な束縛から開放され自由であるともいい得ます、ただひとつ、つまり、孤独を除いては・・・。

 

即ち、10で記したように、「自由とは孤独なり、孤独とは自由なり」ということなのかも知れません・・・。

 

再度、「ハイジ」の話になりますが、ゼーゼーマン家の執事である「ロッテンマイヤー女史」は頑固で融通が利かず、また、お家のため、秩序にもうるさいというきゃらでした。

 

そんなきゃらであるほど、対極的であるハイジのように自由奔放であり、かつ、秩序を脅かすような存在を疎んじるといい得ます。

 

アニメの世界に限らず、現実世界においてもよく見られる光景だと言えます。

 

即ち、「ロッテンマイヤー」が「ハイジ」の影響を排しようするほど、

 

11で記した「皮肉過程論」の法則により、皮肉にも、脳内がハイジ(=粒子ともいい得る)のことでいっぱいになり、結果的に、ハイジの影響を受けざるを得ないので、

 

ハイジを絶対悪と固定し排除させることで、「ロッテンマイヤー」は、自らのきゃらを頑なに守ろうとすると言えます。

 

(そのとき、秩序付けのため、大義名分に4―(1)が加わる傾向にあるとも言える)

 

そして、ハイジのあらを執拗に責めることで、ハイジは追い詰められ、結局、夢遊病になってしまいます。

 

現実世界でも、対極にある思考を監視プロセスで排除しようとするほど、やはり、対極粒子で脳内がいっぱいになり、

 

だんだんとその粒子の影響を受けていくとも言えます。

 

即ち、「これはこうでなければいけない」「これはこうあるべきだ」などという思い込みが強いほど、

 

上記4の「ニュートンのゆりかご」の如く「運動量保存の法則」で、その対極粒子も強く影響を受けるといい得るので、

 

「理想主義」にして「思い込みが強い傾向にある人」であるほど、しまいは、「みいらとりがみいら」「ごみとりがごみ」となるのかも知れません。

 

(「スリパー効果」のメカニズムを説明するひとつであるともいい得る)

 

故に、倫理性が強く求められるであろう職業に従事しており、「これはこうでなければいけない」「これはこうあるべきだ」などと思い込みが強くなるほど、

 

ある意味、自己が「諸刃の剣」となるリスクに苛まれると言えるのかも知れませんし、

 

他者が、そんな職業の人に、「これはこうでなければいけない」「これはこうあるべきだ」と執拗に求めるほど、

 

ある意味、その他者は、無意識に、そんな職業の人を「諸刃の剣」とするリスクに苛まらせてしまうと言えるのかも知れません。

 

言い換えると、思い込みが希薄、つまり、ある意味、「デザートは別腹」の如く「これは、これで、いいかも☆」という感じで、

 

曖昧にして変わり身が早い人であるほど、実は、包括的には、よかったりすると言えるのかも知れません。

 

或いは、物理的には、(対極粒子の)質量とエネルギーは等価なので、エネルギーを排出させるが如く、運動したり、ジムなどに通ったりすると、

 

その対極粒子の影響は、ある程度回避し得るとも言えます。

 

或いは、気が済むまで、もう、飽きて考えたくもないという領域、

 

つまり、「にっちもさっちもどうにもブルドッグwow(=開き直る)」という領域に至るまで、とことん考え尽くすのも、選択肢であると言えるのかも知れません。

 

つまり、「ロダン」の「考える人」から、ときには、「ハイジ」の如き、自由奔放にして素直にして素朴なる振る舞いも、それは、それで、よいのかも知れません・・・。

 

いずれにせよ、人は、そういう感じで、日々、相互リンクにして相補性たる心身と人間関係を相関させながら、心理戦(mind-game)をしていると言えるのかも知れません・・・。

 

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体のこり、歪み、痛みの要因~その13~

 

シロクマのことだけは考えるな! 人生が急にオモシロくなる心理術

シロクマのことだけは考えるな! 人生が急にオモシロくなる心理術

 

 

これはすべて個人の感想で、エビデンスが担保されているものでもありません。

また、万一、私の表現であなた様に、混乱、不安、不快感を抱かせてしまったのであれば、それはまったくの本意ではないことをご理解して頂けましたら誠に幸いに思います。

 

11、皮肉過程理論

 

さて、米の心理学者であり、ハーバード大教授でもあったダニエル・ウェグナー博士が概念づけた、「皮肉過程論(しろくま効果)」なるものがあり、

 

人というのは、脳内で「監視プロセス」を強化することで、真逆因子の進入を防ごうとします。

 

つまり、強くそう思うほど、「思考プロセス」は真逆因子の進入を防ごうとするため、ある時期までは、分離するであろうといい得るのですが、

 

それは、脳内において消滅させているわけではなく、単に「監視プロセス」が、「空気清浄機」や「浄水器」の「フィルター」の如く分離させているに過ぎず、

 

分離領域が飽和状態となり限界点に達すると、何らかのトリガー(誘発)因子がきっかけとなり、皮肉にも、脳内の思考が真逆因子でいっぱいになる。

 

Daniel M. Wegner's Home Page

 

つまり、それを考えないようにしようとするほど、しまいは、皮肉にも、結果的に、それを考えてしまう。それも、利子つきで・・・。

 

その「皮肉過程論(白熊効果)」には、ある意味、

 

かの、エミール・クーエがいう「努力逆転の法則」、つまり、『「想像」と「力への意思」が逆にあり対立する場合、勝利してしまうのは想像の方である』

 

というのを含んでいると言えるのかも知れません。

 

例えば、ダイエットの失敗や、それによるリバウンド現象をイメージすると、より、それは、具現化されるのかも知れません。

 

つまり、(無理・出来ないなど)「ネガティブな想像」>(出来る・成し遂げる)「力への意思」のときほど、「ネガティブな想像」通りに未来が実現する傾向にあり、

 

(無理・出来ないなど)「ネガティブな想像」<(出来る・成し遂げる)「力への意思」のときほど、「力への意思」通りに未来が実現する傾向にあると言えます。

 

だからといって、「ネガティブな想像」を失くせばいいというものでもなく、それがないと、それは、それで、「リスク・マネージメント」をし得ない傾向にもあるので、

 

あくまでも、(出来る・成し遂げる)「力への意思」を最優先にさせるという意味であります・・・。

 

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体のこり、歪み、痛みの要因~その12~

史上最強カラー図解 プロが教える心理学のすべてがわかる本

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これはすべて個人の感想で、エビデンスが担保されているものでもありません。

また、万一、私の表現であなた様に、混乱、不安、不快感を抱かせてしまったのであれば、それはまったくの本意ではないことをご理解して頂けましたら誠に幸いに思います。

 

10、事実認知=勇気

 

人は、「事実を受止めるには相応の勇気が要り」、かつ、「人はそうあって欲しいことを信じる」

 

つまり、人は、「にっちもさっちもどうにもブルドッグwow・・・(゚∀゚)」という領域に入り込むならいざ知らず、

 

その事実認知が辛いものであるほど、事実とは逆であるところのそうあって欲しいことを信じようとする傾向にあると言えます。

 

社会心理学では、それを「認知的不協和」と呼びます。

 

そもそも、人もシステムも未来へ向け発展・成長すること自明で、発展・成長するということは、

 

言い換えれば、現時点において一部欠点があるからこそ、夢と希望いっぱいたる未来へ向け発展・成長の余地を作るともいい得ます。

 

また、システムは人が作るものであります。

 

つまり、人とシステムには、何らかの欠点・否定から逃れること不可避であると言えます。

 

しかしながら、その否定は全否定に非ず、部分否定に過ぎなく、同様に、肯定は、全肯定に非ず、部分肯定に過ぎない。

 

しかしながら、人は、上に記したように、自らの欠点を、素直にしてポジティブには認知したがらない動物(もちろん、私もそうです・・・^^;)であるとも言い得ます。

 

また、「苦悩やジレンマの罠」に陥っているときほど、否定を全否定に、肯定を全肯定と解釈する傾向にあると言えるのかも知れません。

 

そして、その不可避な欠点を、自ら勇気を持って認知し得ないときであるほど、

 

他者に責任転嫁し押し付けようとして、他者のあら捜し、個人攻撃、詭弁、拡大解釈、論点のすり替え・こじつけ・押し付け

 

権威への訴えなどで、自己欠点認知を回避しようとする傾向にあるとも言えます。

 

言い換えれば、「にっちもさっちもどうにもブルドッグwow(=開き直る)」という領域に行かないと、欠点認知をポジティブにはし得ない傾向にあるとも言えますが、

 

人は、(高齢者後期はさておき)免疫力・耐性力、受容力・学習力が逓増(ていぞう→次第に増えていく)して行くように出来ているとも言えるので、

 

ある意味、人はそういう風になるように出来ているとも言えるし、一般社会では、尚の事、しょうがないと言えるのかも知れません。

 

だからこそ、人は、相互リンクにして相補性たる心身と人間関係を相関させながら、心の傷を慰め合い、癒し合い、そして、恋が生まれるのかも知れません。

 

しかしながら、日々、状況が変化し過ぎている現代の世の中では、そのマジック(魔法)は永遠には続けられない。

 

つまり、認知すべくところの事実認知を避けるほど、避けようとするがために、結果的に、「これは、こうでなければならない」「これはこうあるべきだ」という感じで、

 

過度に緊張・力んだところの硬直的・束縛的な生き方をせざるを得ないとも言えるし、人間関係をせっかく育んだところの他者にまでそれを強く押し付けたりしたなら、

 

せっかく育んだところの人間関係はぎくしゃくし、新たなる問題ごとが創造され、

 

しまいは、元の木阿弥(もくあみ)となり、その関係は、愛などが深まる前に、やがて、エピローグ(終章)を迎えるのかも知れません。

 

つまり、自由がよいのなら孤独に耐え得るだけの「力への意思」がなければならないし、孤独に耐え得る「力への意思」がないのなら、自由は相応に束縛されること不可避であり、

 

故に、その頑固たる意思は、何らかの価値観を共有すべく他者との融合に向かうよう振舞わざるを得ないという感じなのかも知れません。

 

即ち、かの、ロビンソン・クルーソーの如く、無人島で1人ぼっちの自給自足生活でもしない限り、

 

人は1人では生きられないので、認知すべくところの事実認知は、やはり、不可避であると言えます。

 

拠って、せっかちにならず、あせらず、徐々に、事実認知をして行くことこそが、得策なのかも知れません。

 

そして、事実認知をすると、その分、勇気が得られる。

 

つまり、事実認知=勇気であると言えます。

 

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体のこり、歪み、痛みの要因~その11~

ずっとやりたかったことを、やりなさい。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。

 

 

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9、人の認知行動における原理・原則

 

さて、心身についてここまで記しいて参りましたが、改めて、私が思うところの、人間関係における人の認知行動にある原理・原則をざっくりと記すとします。

 

①「人は誰かに必要とされることを行動の最大目的としている」

 

言い換えるなら、自己が必要とされていないと認知したなら、自己は孤独と不安を感じる傾向にある

 

②「大きな矛盾を抱えさせあえて厳しい環境下に自己を置くことで、なり得るものになろうとする」

 

言い換えるなら、なり得るものになろうとする自己であるほど、自己を厳しい環境下に置く傾向にある。

 

①②を融合させるなら、「なり得るものになるために、大きな矛盾を抱えてまでも、自己をより必要と認識され得る人間関係を求めてしまう傾向にある」

 

さて、ここまで、ご覧下さっている皆様は、私が何をいはんとしているのか、もう、お分かりいただいているかも知れません。

 

つまり、「その原則の下で、相互リンクにして相補性たる心身と人間関係を相関させている」と言えるのかも知れません・・・。

 

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体のこり、歪み、痛みの要因~その10~

 

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8、「愛」なるもの・・・?!

 

さて、ここまで、「愛、愛、愛、愛って、おさるさんだよ」じゃないんだから・・・(゚∀゚)

 

という感じで、さんざん愛と記してまいりましたが、今更ながら、愛なるものってなんでありましょう・・・?!

 

つまり、「愛」なるものの定義付けなのですが、

 

16世紀にポルトガルより日本へキリスト教が伝来して来たとき、「amor(英語でいうlove)」の訳に、

 

当時の切支丹らしき人は、「amor」=「御大切」という訳を当てたといわれております。

 

つまり、情愛含んだところの包括的な「愛」=「御大切(=real love)」と相成ったと言い得ます。

 

たまたま、その訳者が「御大切」としたともいい得て、「御大事」でもよかったのかも知れませんが、

 

いずれにせよ、当時の日本人は、人対人だけではなく、他の生き物や物に対しても、「御大切」に想い合っていたのかも知れません。

 

とはいっても、「もったいない」ではなく、生きること(=食べること)とは、何らかの犠牲により成り立ち、ときには、命を奪うことでもあるが故に、

 

それは、それで、「侘しく、寂しく」あり、つまり、「侘び・寂び」「一期一会」となり、

 

「御大切」に想うからこそ、食べるとき、何かを頂くとき、ありがたく、「いただきます」「ごちそうさま」となったのかも知れません。

 

つまり、「いただきます」「ごちそうさま」とは、「愛」=「御大切(=real love)」な想ひであるのかも知れません・・・。

 

さすれば、今宵、大事なるあの人に対して、

 

「私はあなたを御大切に想ふ(=I love you o.k.)」というのも、それは、それで、「なんだか、いとをかしかな」という感じでございます・・・(*^_^*;

 

さて、私は、切支丹ではなく、施術者にして研究者なので、次以降、更なる別の視点で、探求して行きたいと想います。

 

 

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体のこり、歪み、痛みの要因~その9~

まんがと図解でわかるニーチェ (別冊宝島) (別冊宝島 1729 スタディー)

まんがと図解でわかるニーチェ (別冊宝島) (別冊宝島 1729 スタディー)

 

 

これはすべて個人の感想で、エビデンスが担保されているものでもありません。

また、万一、私の表現であなた様に、混乱、不安、不快感を抱かせてしまったのであれば、それはまったくの本意ではないことをご理解して頂けましたら誠に幸いに思います。

 

7、「クオリア問題」と「遠近法思考」

 

①私的クオリア問題

 

私的に、「クオリア問題」なるものを哲学的(形而上にして形而下の領域という意味での)に喩えていうなら、

 

ホログラム(CDDVDBLU-RAYなどの光ディスク裏面や高額紙幣に導入されている)の観測に相似していると言えるのかも知れません。

 

つまり、物事というのは、見る角度により、無限通りといい得る視点とその解釈が存在していると言えて、故に、少数の視点であるほど、

 

視野狭窄を根底においた先入観や固定観念などの罠に陥り、苦悩やジレンマ(葛藤)などの呪縛に嵌る傾向にあり、

 

かといって、視野広漠過ぎると、それは、それで、際限がないからこそ故の、苦悩やジレンマなどの呪縛に嵌る傾向にあるとも言い得ます。

 

つまり、同一の現象を観測し何らかの「感覚質」を得たとしても、人それぞれ感じ方が違い、また、同一の人であっても、その状況により、感じ方が変化してしまう。

 

即ち、認知バイアス(偏り)に陥るほど、自己と他者という人間関係と、自己そのもの間で、もつれ相関し合いながら、苦悩やジレンマなどの呪縛に嵌る傾向にあるとも言えます。

 

即ち、「ロダン」の「考える人」状態だと言えます。

 

②物事の捉え方

 

例えば、絶対値において1080円は、それ以上でもないし、それ以下でもないのですが、

 

その人によって、また、同じ人であっても、置かれた状況により、相対価値、つまり、価値観と意味合いが違って来ると言えます。

 

100均好きなある人は、1080÷10810個と解釈するかも知れないし、

 

ビール好きな人は、1080÷215350缶ビール近所のあるコンビニにおける小売価格)=5.02

 

吝嗇(りんしょく)過ぎる人は、310倍くらいの感覚で以って、100均を324円~1080円くらいの価値観で利用したりするのかも知れません。

 

そして、さほど辛くないときは、カイロや整体は、1080÷5000(当店のカイロ50分コースの料金)=0.21回分と解釈するかも知れませんが、

 

ひどく辛いときに施術を受け、施術後、その辛さが、すっきり・らくらく(当店のキャッチ・コピーでもある)になったら、

 

それは、それで、5000円が何倍もの価値に感じられるかも知れません。

 

③遠近法思考

 

さて、人というのは、予想や現実たるその現象や出来事が、自己にとり、関連度が高いと感じられるほど、それに比例して、重要に重く感じられ、

 

関連度が低いと感じられるほど、それに比例して、些細に軽く感じられる傾向にあると言えます。

 

要するに、その現象や出来事が、人により、また、同じ人であっても、置かれた状況により景色が違って見えると言えます。

 

つまり、人は、その現象や出来事が自己にとり重要であるほど大きく感じられるように出来ているので、

 

結果的に、人は、程度の差はあれども、誰しもが、自己中心的な生き物になるように出来ているとも言えます。

 

つまり、人は、物事を判断するとき、自分の視点から出発しており、その人の年齢や立場、性別、文化的背景などから見えるもの、見えないものがあり、

 

その人にとって、重要なこと、些細なことも、その人の視点によって、決まってくる。

 

かの、哲学者ニーチエは、それを、「遠近法思考」といったのですが、

 

その「遠近法思考」は、自覚しておらず、意識していない部分でも、人の「認知行動」に常に作用し影響を与えている。

 

つまり、その人固有の「遠近法思考」という枠の中で感じ、考えていることになる。

 

※参照文献

 

白取春彦監修、まんがと図解でわかる「ニーチェ」、「別冊宝島」、2013年、P3032より

 

④他者というものは、自己の主観を通したところの他者に過ぎない・・・

 

さて、③で記したとおり、人は、その人固有の「遠近法思考」という枠の中で、物事を感じているということを、

 

共有するほど、自己像は見失いにくく、かつ、人間関係も、また、円滑に進むであろうとと言えます。

 

言い換えれば、そのことを忘れると、

 

「僕は、私は、こんなに頑張っているのに、こんなに思っているのに、環境相手はわかってくれない、気づいてくれない、リアクションが感じられない」と、

 

しまいは、「けなげな悲劇の主人公」となるやも知れません。

 

まあ、これは、これで、ひとつの生き方でもあるし、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の領域において、けなげな悲劇の主人公は、それは、それで、いいのかも知れませんが・・・。

 

いずれにせよ、他者というものは、自己の主観を通したところの他者に過ぎないと言えます。

 

つまり、自己そのものと(=A)、自己の主観を通したところの他者像は(=AB)は、イコールにはなり難く、

 

同様にして、他者そのものと(=B)、他者の主観を通したところの自己像は(=BA)、はイコールにはなり難いと言えます。

 

従って、他者に対して自己の尊重を期するなら、自己においてもその他者というものを尊重しない限り、一方的な要求となるやも知れず、

 

しまいは、自己を見失い、かつ、人間関係はぎすぎすしたものになるのかも知れません。

 

つまり、4、「ニュートンのゆりかご」の如く、「自己尊重要求=他者尊重受容」であると言えます。

 

④万物、万人に感謝すべく運命を愛あらん・・・

 

さて、「陰陽論」の如く、「矛と盾」、2で記したところの「アゴニスト」と「アンタゴニスト」の関係には、相補性があると言い得ます。

 

つまり、陰は陽によって、陽は陰によって、「相互補い合い」の振舞いをしているので、片方が傷つくと、結果的(時間軸の延長線上)に、両者とも傷つくことになると言えます。

 

逆に、片方が癒されると、結果的(時間軸の延長線上)に、両者とも癒されることになるとも言い得ます。

 

自己内の矛盾、男女関係、親子関係、友人関係、仕事関係などの人間関係も同様であると言えます。

 

さて、陰は陽を失うと存在出来得ず、その逆も、また、然りです。

 

つまり、欠点は利点によって支えられ、利点は欠点によって支えられていると言えて、かつ、時間軸Tにおいて、それらは、流転していくであろうとも言い得ます(=万物流転)。

 

例えば、自己や気になる人の欠点やあらを感じたり・見えたことで、ネガティブな反応で自己の劣等感を感じたり、その人を嫌いになったりすることがあるかも知れません。

 

しかしながら、上記に記したように、利点と欠点は表裏一体なので、結局は、本質を見失っているところの、ドクサ(虚知)な振舞いであるといい得るのかも知れません。

 

そんなときこそ、「二律背反(アンチノミー)」ちっくに、そのあらや欠点を愛そうとすればいい。

 

しかしながら、自他共に調子に乗り過ぎてしまう(=おだつ)と、それは、それで、いけないので、

 

「柔らかいふとん」のようではなく、「固いところのせんべいぶとん」のように、そのあらや欠点を愛することこそが、エピステーメー(真知)となり得るのかも知れません。

 

つまり、自己が自己を尊重出来ない、期待出来ない、愛せない人であるほど、他者を自己の鏡の如く投射させ、そこにある欠点やあらを探そうとし、

 

詭弁、拡大解釈、論点のすり替え・こじつけ・押し付け、権威への訴えなどを駆使して、しまいは、個人攻撃、誹謗中傷ごととなるのかも知れません。

 

即ち、他者の欠点・あら=自己の欠点・あらであるともいい得ます。

 

言い換えるなら、他者がいないと、自己の欠点・あらは見出し得ない・・・。

 

つまり、その欠点・あら解消動機が、自己を大いに進歩・成長させるといい得るので、

 

従って、自己が自己を尊重出来ない、期待出来ない、愛せない人であるほど、精神の進歩・成長の速度が遅く、

 

かつ、他者を尊重出来ない、期待出来ない、愛せないであろうといい得ます。

 

つまり、

 

「愛される=愛する」→「愛される-愛する=0(無)」、

 

my loveyour love」→「my loveyour love0(無)」、

 

「自己愛=他者愛→自己愛-他者愛=0(無)」

 

という等価式が成立するといい得ます。

 

即ち、絶対値或いは相対値の領域においても、「これはこうでなければならない」「これはこうあるべきだ」と言う感じで、

 

「愛される」「my love」「自己愛」<「愛する」「your love」「他者愛」、或いは、「愛される」「my love」「自己愛」>「愛する」「your love」「他者愛」と認知するほど、

 

相互リンクにして相補性たる心身と人間関係の相関において、それらは必要以上の苦悩やジレンマの罠に陥り、しまいは、「ロダン」の「考える人」状態になるやも知れません・・・。

 

まあ、それは、それで、誰もが通る道だとも言えるし、だからこそ、精神が高みになるべく成長・進歩するであろうとも言えるのですが、

 

いずれにせよ、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「礼も過ぎれば無礼になる」「薬も過ぎれば毒となる」という感じです。

 

拠って、「万物、万人に感謝すべく運命を愛あらん・・・」と論駁すること相成ります・・・。

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

 

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